■ 次のふたつの違いを認識することは重要だ。
- 我思う ゆえに我あり ホトトギス
- 我は食う ゆえに我あり さつまいも
■ 我思う、というとき、言葉が介在しているのではないか、と考えられる。
■ よく、バイリンガル、つまり二つの言語を話す人は、
- どちらの言葉で考えているのか、
■ そんなことが言われることがある。
■ 言葉は、一人だけのモノではなく、多くの人に使われるので意味があるわけだから、
■ 言葉で考えるとき、その言葉や考えが元々自分のモノでないこともある。
■ ところが、我は食う、というとき、食うのはあくまでその人であり、「我」だ。
■ 我であり、他の人ではない。
■ ごく単純なことだが、
- 我は食う ゆえに我あり さつまいも
■ この方が「我」のとらえ方としては哲学的には本質的だと考えられる。
■ 「さつまいも」や「食う」が低俗に感じられるかもしれないが、
■ 人の行為としての「食う」という現実感が、
■ ともすれば言葉遊びになりかねないデカルトの言葉を超えている。
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